ブラジルの赤い土
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 ブラジル旅行bT

1985年10月21日(月)
 午前7時にクィアバに戻る。行程797km。着いたとたん、ギア ホドビアーリオ ブラジル 85(ブラジル地図)を車内に忘れたのに気づく。バス会社の方に話すと車庫にあるとの事で、次のバスで車庫まで乗せてもらい地図を手にすることが出来ました。また帰りも清掃の終わったバスでバスターミナルまで乗せてくれました。上司の日系の方には乗せられないと言われましたが、バスの運転手と車掌が乗せてくれました。感謝。
 午後8時のバスまで時間があるので、映画館に入りました。ランボーUをやっていました。5,000cr(50k)。ブラジル人は映画を見る時、歓声は上げるは、拍手はするはでえらい賑やかです。
 夜、カンポグランジ行きのバスに乗り込むと、この旅行で初めて満席でなく2席分で横になることが出来ました。

10月22日
 午前6時、カンポ グランジ-MS着。行程708km。バルゼア アレグレ農協に伺い今までの旅の話をすると昼食に豪華な中華料理をご馳走していただくことに。今まで旅行中ろくな物を食べてこなっかったと思われたみたいです。組合事務所の向かいにあるメルカードには、新鮮な野菜が種類もたくさん並んでおり、サンパウロに近いと感じます。午後、組合の養鶏の飼料工場に案内してもらい入植地まで飼料を運ぶトラックに同乗する。街から50kmのバルゼア アレグア入植地の組合本部の隣の旧JAICAの宿舎に泊めてもらう。夕食は組合購買部の管理人のブラジル人のご馳走に。

10月23日
 赤城山1期生の石塚 氏に案内をしてもらう。ここには江崎 氏、野田 氏、安藤 氏と赤城山の先輩がおられます。彼らは日本から資金を持ってきていて移住後早い時期に独立しています。今は養鶏(採卵)が中心ですが、将来的にはオレンジ、レモンなどの果樹を作りたいとの事でした。

10月24日〜29日
 江崎 氏宅でお世話になる。養鶏の規模は2万羽と規模は大きくないのですが、組合の飼料工場のおかげでやっていけるとのことです。養鶏農家は忙しいもので、すこしお手伝いをしながら入植地を案内してもらう。小野田 氏の牧場も行きましたが、あいにく彼はお留守でルバング島の話は聞けませんでした。パンタナールに行きたかったのですが、それはまたの楽しみにおいておきます。

10月30日
 今日帰る予定だったのが、横河電気の農場の支配人の大森 氏が江崎 氏宅に来られて農場を見せてもらいました。農場の近くでアメリカダチョウ(レア)が来ていてビックリ。農場は波状の丘陵地で今は主に大豆を作っています。今年は乾季が長引き播種が遅れているとの事。雨が降らないと土が固まっており耕せないのです。また傾斜があるので雨で表土が流されないように等高線に合わせた作付けをしています。道路なども水が一気に流れるので、水の逃げ場を作る必要があります。将来は牧場にするほうが良いと言っておられました。

10月31日
 大森 氏がカンポグランジに用事があり、同乗させてもらう。組合にお礼を言って、サンパウロまでは鉄道にする事に。午後6時28分発の個室寝台でバウルー-SPまで乗る。車内にはシャワーもあって快適でした。値段は国有のため安くてバスと変わらないぐらいです。時間はかかるけど。

バウルー駅で乗り換え

11月1日
 バウルーに午後0時10分着。行程669km。ここで東部時間に合わせて1時間、時計を進ます。線路の幅が違うので車両を乗り換えてサンパウロ行きに乗り換える。午後1時25分、1時間遅れで出発。この汽車が遅れてサンパウロのルース駅に着いたのが11月2日の午前3時。行程345km。この日から夏時間に変わったところで4時になり始発電車でスザーノに無事に帰ってくる。
 多くの方々のお世話になり、ほんとうに感謝しています。みなさんありがとうございました。

 ここまでは、旅行の直後に農協中央会に提出するためのレポートの下書きを元に少し訂正しながら書きました。思えば20年前の出来事ですが、目を閉じればはっきりと今でも思い浮かびます。出会った方々は元気にされているのでしょうか。移住者の後輩としてお訪ねした事で、いろいろな生の話が聞けたことは、とても貴重な経験でした。
 最初、ソロカバの農場でお世話になっていたのですが、体を壊して(椎間板ヘルニア)から帝人系のテスコの笠松社長にお世話になり、スザーノにある工場に住み込みで働いていました。体も元気になり次に行く所を探す旅をしたわけです。そして、私はベレン近郊のサンタ イザベル ド パラーの藤原農場に引越しをする事に決めたのでした。藤原農場に移ってしばらくして、私たち夫婦の家の建築が始まってすぐ父の病気のため帰国することになってしまいました。一緒に旅行をした小沢君はレシフェの郊外で花卉栽培を続けています。
                                 2005年2月1日記


サンタイザベルの藤原 氏宅

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